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Video: 海の民 全てを破壊しつくした世界史上最大の謎 未解決事件File.No.47
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ヨハネ パウロ 2 世, 2021-10-30, 海の民 全てを破壊しつくした世界史上最大の謎 未解決事件File.No.47, 紀元前1200年から紀元前1177年にかけて、巨大な規模のカタストロフが起きた
その大崩壊は古き時代を終わらせ、新たな時代を幕開けた
果たしてその崩壊を起こしたのは謎の民族「海の民」だったのか?
青銅器文明から鉄器文明への大変換点となったBC1200年のカタストロフについて解説
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次動画:フェニキア人の滅亡 https://youtu.be/hMxZghrZN4c
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古代オリエント史
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古代バビロニア帝国の滅亡 https://youtu.be/FAA0_cnWgg8
エジプト史の始まり https://youtu.be/xe_4UHtUxgo
エジプト古王国の滅亡 https://youtu.be/u2lHUMI_HdM
エジプト中王国の滅亡 https://youtu.be/cQlpElVfvfw
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ミタンニの滅亡 https://youtu.be/7YbNeecRWnY
古代ギリシア史
ギリシアの歴史を一気に語るぜ! https://youtu.be/Z-4l3u8xxxY
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ミケーネ文明の滅亡 https://youtu.be/uaWARbnz8ww
世界史未解決事件File
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File.No.44:京都わらび殺人事件 https://youtu.be/EwcnaESn5F4
File.No.45:ファラオの呪い https://youtu.be/_sYZmxpA28o
File.No.46:玄武門の変 https://youtu.be/562EbKP00hM, 俺の世界史ch
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概要[編集]
ハドリアヌス6世[注釈 1]以来455年ぶりの非イタリア人教皇にして、史上初のポーランド人教皇である。同時に20世紀中、最年少で着座した教皇でもある。カトリック教会の聖人で[注釈 2]、教皇ヨハネ23世とともに列聖された[注釈 3]。神学と哲学の2つの博士号を持っていた。
冷戦末期において、世界平和と戦争反対を呼びかけ、数々の平和行動を実践し、共産党一党独裁下にあった母国ポーランドを初めとする各国の民主化活動の精神的支柱としての役割を果たした。世界129か国を訪問し「空飛ぶ聖座」と呼ばれた[2]。
また、生命倫理などの分野でのキリスト教的道徳観の再提示を行うとともに、エキュメニズムの精神からキリスト教内の他宗派や他宗教・他文化間の対話を呼びかけたことは、宗教・宗派の枠を超えて現代世界全体に大きな影響を与え、没後も多くの信徒や宗教関係者から尊敬を集めている。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
アルビーノ・ルチャーニはイタリアのヴェネツィアから北へ約120kmのベッルーノ県カナーレ・ダーゴルドで、長男として生まれた。ルチャーニには2人の弟と1人の妹がいた。
敬虔な信者であった母親の深い感化を受けて育ち、幼少の頃より司祭になることを決心していた。父親は季節労働者のために自宅にいる日はほとんどなかった。その後、父親は定職を得たものの、非常に貧しい家庭であった。
聖職者[編集]
1923年にフェルトレの神学校に入ったが、後にベッルーノ教区の神学校に移って学んだ。このころにはイエズス会に入会しようとするが、神学校のジョズエ・カッタロッシ (Giosuè Cattarossi) 司教には、入会を認められなかった。1935年7月7日にベッルーノの聖ピエトロ教会で司祭に叙階された。
第二次世界大戦後にはベッルーノ教区神学校の教授になり、その後1958年にヨハネ23世によってヴィットリオ・ヴェネトの司教に任命された。
司教に任命された後もサン・マルティーノにある粗末な古城に住み、質素な生活を続けた。なお、この司教時代におこなわれた第2バチカン公会議には、全会期を通じて参加した。
総大司教[編集]
1970年にヴェネツィアの総大司教に任命され、同地域の貧困層や障害者の救済、さらに発展途上国への支援に尽力した。なお、「聖職者にならなければジャーナリストになっていた」とよく周辺に話しており、実際にこの頃から新聞や雑誌への投稿を数多く行うなど、積極的に言論活動を行っていた。
そうした中でも清貧の精神を常に失わず、総大司教に任命された時には信者達からの100万リラの寄贈金があったが、「私がこの地に来た時はポケットに5リラしかありませんでした。ですから去る時も5リラしか持ちません」と語り、全額を寄付した。
カットーリカ・デル・ヴェーネト銀行売却[編集]
1972年に、ルチャーニが総大司教を務めていたヴェネツィアでは、聖職者や低所得者層への低金利融資を行っていたカットーリカ・デル・ヴェーネト銀行(Banca Cattolica del Veneto)が、大規模な陰謀に巻き込まれていた。同行はバチカンの運営資金調達や資金管理などの財政を取り仕切るバチカン銀行(正式名称は「宗教事業協会」、Istituto per le Opere di Religioni/IOR)の総裁で、マフィアやフリーメーソンのロッジP2などの秘密組織と深い関係を持っていたアメリカ生まれのポール・マルチンクス大司教と、バチカン銀行の主力取引行であるアンブロシアーノ銀行のロベルト・カルヴィ頭取の、脱税と株式の不法売買のために秘密裏に売却された。
これに対して、ルチャーニ総大司教はバチカンに抗議をしたものの、マルチンクス大司教がパウロ6世から直々にバチカン銀行総裁に任命されていたことから、パウロ6世へ累が及ばないように巧みに抗議を行ったことなどがパウロ6世に感銘を与え、パウロ6世からの信頼を勝ち取った。このことも影響し、翌年の1973年には枢機卿に選ばれた。
枢機卿[編集]
1973年に枢機卿に選ばれた後は、主に発展途上国への支援や貧困層の救済に尽力し、またパウロ6世の強い信頼を受けたものの、バチカン内の政治的、金銭的な動向に対しては極めて無欲であったと言われている。
「ヨハネ・パウロ1世」[編集]
1978年8月6日にパウロ6世が死去し、死去を受けて行われたコンクラーヴェにおいて、「本命」と目されていたジュゼッペ・シーリ枢機卿やブラジル出身のアロイージ・ロシャイデル枢機卿を退け、1日目の3回の投票でアルビーノ・ルチャーニ枢機卿が新教皇に選ばれた。
教皇名は「ヨハネ・パウロ」となり、複合名を初めて採用した教皇となった(これはヨハネ23世とパウロ6世前教皇の改革路線を継承するという意志の表れとも言われる)。また通常、初めての名前には2世が現れるまで「1世」と付けないのが通例であったが、8月26日の就任当初から「ヨハネ・パウロ1世」を自ら名乗っている。これには「ヨハネとパウロという法王名を組み合わせた初めての例だから」「(バチカンの)刷新の思いを込めた」などの説がある
[1]。
改革[編集]
ヨハネ・パウロ1世は、様々な意味で型破りな教皇であった。複合名を初めて採用したことを皮切りに、虚飾的な事柄に対して非常に改革的に臨み、例えば教皇演説の中で、それまでの教皇が伝統的に自らを「朕」と呼んでいたのを初めて「私」に変えた他、豪華な教皇戴冠式や教皇冠も拒否した。教皇用の輿の使用も拒否したが、これは周囲の圧力で使わざるを得なかった。
さらに、難解な宗教用語やラテン語を多用していた表現を、ジュール・ヴェルヌや『ピノキオ』などを引用した、一般人にも理解しやすい平坦な表現へと改めた。こうした試みは「キリスト教の威厳を損なう」などとして保守派からは反感を買うこととなった。
また、中南米やアフリカ諸国の聖職者をバチカンの要職につけた他、中南米やアフリカ諸国の貧困や独裁体制下で苦悩する民衆への同情を示し、アルゼンチンで行われていた「汚い戦争」を進めていたホルヘ・ラファエル・ビデラ大統領(上記の「ロッジP2」は反共産主義であるがゆえに同大統領を支援していた)がバチカンで行われた戴冠式に訪れた際には、直接的な表現でアルゼンチンの現状を非難した。
9月23日に、ローマ司教の職権によりサン・ピエトロ大聖堂を受け継いだ。当時イタリアで大きな支持を受けていた(反対に、当時の東西冷戦下でイタリアの保守派やアメリカなどからは強い反発を受けていた)ローマの共産党の市長と握手を交わし、ミサの後「教会の真の宝である貧しい人々のためには尽力するが、悪人に対しては教皇の教権を憚ることなく行使する」と宣言した。
避妊の解放[編集]
ヨハネ・パウロ1世は、避妊についての禁令を解くつもりでもあった。アメリカの幾つかのプロテスタント教会とは既に接触を持っていた。教皇に選出される直前、アメリカ議会代表団を歓迎し、避妊について女性の排卵期について語った後「どうして妊娠しない期間を、24日から28日にすると罪になるのか、私には理解できません」と述べた。そして、パウロ6世による旧来の産児制限反対を再確認する回勅『人間の生命について〔フマナエ・ウィタエ〕』は誤りだったと口にしていた。
「神からの贈り物である子供が出来ないようにする行為は罪である」とするそれまでの主流派に反して、「本当に子供を望んでいる女性のみが妊娠すべきである」との避妊擁護の考えを持っていた[2]。
バチカン銀行の改革[編集]
就任後間もなく、バチカン銀行の不透明な財政についての改革を表明した。実際に、マルチンクス総裁の更迭を決めていた。同氏はかつてカトーリカ・デル・ベーネト銀行の売却で暗闘し、その後も「ロッジP2」のリーチオ・ジェッリ代表を含むメンバーや、マフィアなどと深い関係を持ち汚職を続けていただけでなく、偽造公債の発注がFBIの捜査対象になるなど、その言動が国際的にも問題視されていた。
また、マルチンクス総裁以外にも、ジャン=マリー・ヴィヨ国務長官をはじめとするバチカン銀行の汚職に関係するバチカン内部の関係者の更迭を死去直前に決定し、その更迭者リストの内容をめぐって様々な噂が流れていた。
急逝[編集]
教皇在位33日[編集]
上記のような改革を早くから表明したことは、多くのバチカン内の改革派と信者からの支持と喝采を受けた。一方で、追放の対象者となった「保守派」やその利害関係者からは大きな抵抗と非難を受けていた。
そしてヨハネ・パウロ1世は、教皇在位わずか33日目の1978年9月28日、午前4時45分にバチカン内の自室で遺体となって発見された。わずか33日の教皇在位は、20世紀に入ってから、そしてそれ以降も最短の在位記録となった。
証拠隠滅[編集]
午前4時という、通常通りの起床時間になっても起きて来ないことを不審に思った修道女によって発見された直後に、個人秘書であるマギー神父に連絡が行き、さらに午前5時にはヴィヨ国務長官に連絡が行った、しかしヴィヨはすぐに専属医師団を呼ばず、自らの側近に連絡した後にようやく医師団次席であるレナート・ブゾネッティ医師に連絡を行った。
その後、午前6時過ぎに駆けつけたブゾネッティ医師による検死が行われたものの、遺体解剖が行われていないにもかかわらず、ブゾネッティは「死亡推定時刻は27日の午後11時ころで、死因は急性心筋梗塞である」と断定し、午前7時27分にバチカン放送による逝去の発表がされた際にはこの検死内容がそのまま発表された。なお、この際にはなぜか(聖職者の私室に修道女ではあっても女性が入ってはいけないという理由で)遺体の発見者が個人秘書のマギー神父であると偽って発表され、さらに遺体発見時刻も「午前5時30分」と偽って発表された。
さらに死去後、ヨハネ・パウロ1世の遺体発見時にベッド周辺に置かれていた眼鏡とスリッパ、就寝前に手元にあったヴィヨ国務長官やマルチンクス大司教などのバチカン銀行関係者の更迭を含むバチカンの人事異動者リスト、通常は常時用意されている遺言状が、前日ヨハネ・パウロ1世より更迭が言い渡されたヴィヨ国務長官により持ち去られており、その後行方不明になった。
ヨハネ・パウロ1世の遺体が発見されてから15分と経たず、医師団への連絡も行われていない午前5時前には、早くもバチカン御用達の葬儀社であるシニョラッティ社に連絡が行った上に、遺体解剖も行われず、明確な死因もわからないうちから防腐処理が行われたことなど、バチカンによる「証拠隠滅」や「情報操作」と思われる行為が矢継ぎ早に行われた。この迅速な対応が信者やイタリア政界関係者、マスコミだけでなく、バチカン内部関係者からも大きな疑惑を呼んだ。
イタリアの有力紙である『コリエーレ・デラ・セラ』は、遺体解剖がすぐに行われなかったことを10月1日の紙面で大々的に批判した。なお、遺体解剖は防腐処理の終了後に秘密裏に行われた。
謀殺「説」[編集]
このように、死後間もなく不可解な証拠隠滅や情報操作が行われた上に、ヨハネ・パウロ1世によるバチカン銀行の改革と自らの追放を恐れていたマルチンクス大司教が、普段は早朝に起床することがないにもかかわらず、なぜか当日午前6時45分に教皇の寝室近辺にいたこともあり、ヴィヨ国務長官やマルチンクス大司教、そしてマルチンクス大司教と関係の深かった「ロッジP2」のジェッリ代表、さらにこの2人と関係の深いアンブロシアーノ銀行のカルヴィ頭取らによる謀殺説が囁かれることになった。
このほかにも、これらの人物と近い関係にあったマフィアによる暗殺説もあり、マフィアとバチカン、イタリア政界の関係を扱った1990年公開のアメリカ映画『ゴッドファーザー PART III』のプロットの一部は、この教皇の謀殺説をもとにしている。
また、2006年に発表され、世界的ベストセラーとなったポルトガル人作家ルイス・ミゲル・ローシャ(英語版)によるミステリ小説『P2』(新潮社刊・原題 O Ultimo Papa )は、この教皇謀殺と秘密結社「ロッジP2」との関連をテーマにしたものである。
葬儀[編集]
葬儀ミサは同年10月4日に執り行われた。「微笑みの教皇」といわれ、飾らない態度と柔和と謙遜、率直な姿勢が人々の信頼と期待を生み、さらにバチカン銀行の改革を表明していたこともあり、多くの信者からその死去を悲しむ声が聞かれた。

教皇就任までの略歴[編集]
幼少期から司祭時代[編集]
ヨーゼフ・ラッツィンガーは1927年、父ヨーゼフと母マリアの次男としてドイツのバイエルン州マルクトル・アム・インで生まれた。父親は警察官であり、母は食堂の手伝いをして生計を立てていた。父ヨーゼフは1937年に退職したが、勃興してきたナチスに対して激しい嫌悪感を抱いていた。兄ゲオルク(ドイツ語版)は、後にヨーゼフと共に司祭職を志して司祭となり、ヨーゼフが教皇になった後も時折会っていたが、2020年7月1日に96歳で亡くなった[1][2]。姉マリアは生涯独身で自身の身の世話をしていたが、1991年に亡くなっている。
親族によれば、ヨーゼフは小さい頃から司祭になることを夢見ていたという。しかし1939年に第二次世界大戦が勃発し、ドイツが戦争一色になると14歳でヒトラーユーゲントへ加入する。当時のドイツでは、「ヒトラーユーゲント法」によって、10歳から18歳までの青少年はヒトラーユーゲントへ加入することが義務づけられていた。1943年には学友と共に対空防衛補助活動に動員され、1944年にいったん自宅へ戻ることができたが、戦況の悪化にともなって再び動員されて歩兵としての訓練を受けた。1945年4月にドイツ降伏後のわずかな期間ウルムの捕虜収容所に収容されていたが、まもなく解放された。
戦後に兄ゲオルクと共にトラウンシュタインの聖ミカエル神学校にはいったヨーゼフは1951年6月29日に司祭に叙階され、1953年に『聖アウグスティヌスの教会論における神の民と神の家』という論文で神学博士号を取得。さらに1957年には聖ボナヴェントゥラについての論文を著して大学教授資格を得て、フライジング哲学神学大学(ドイツ語版)に迎えられた。ヨーゼフは1959年から1963年まではボン大学で教え、ついでミュンヘン大学、テュービンゲン大学で教鞭をとった。テュービンゲンでは著名な神学者ハンス・キュングと共に教えたが、当時の大学にあふれていた学生運動や学生たちのマルクス主義への傾倒には行き過ぎを感じていた。1969年から1977年まではレーゲンスブルク大学(ドイツ語版)に所属し、1976年から副学長を務めた。この時期の教え子の一人に、後に側近となったクリストフ・シェーンボルンがいる。
第2バチカン公会議ではケルン大司教ヨーゼフ・フリングス枢機卿の神学顧問として活躍。公会議文書『キリスト教以外の諸宗教に関する教会の態度についての宣言』の作成において貢献した。後にラッツィンガーは教理省長官として再び他宗教・思想との関係を論じた『ドミヌス・イエスス』を世に問うことになる。
司教・枢機卿時代[編集]
1972年、ラッツィンガーはハンス・ウルス・フォン・バルタザールやアンリ・ドゥ・リュバックらと共に神学ジャーナル『コムニオ』を発刊。『コムニオ』は今では17言語で発行されるほどカトリック神学の世界において重要なものとなっている。
1977年にミュンヘン・フライジングの大司教に任命された。このとき、彼が司教職のモットーとして選んだ言葉は「ヨハネの第三の手紙」からとった「コーペラトレス・ウェリターティス」(真理の協働者)であった。同年、パウロ6世によって枢機卿にあげられたが、2005年のコンクラーヴェにおいて、パウロ6世の任命した枢機卿のうちで生存しているものは14名、80歳以下でコンクラーヴェに参加できたものはラッツィンガーを含めてわずか3人だった。
1981年11月、教皇ヨハネ・パウロ2世は、ラッツィンガーを教理省(英語版)の長官に任命した。彼は教皇位を受けるまでその地位にあった。教理省はかつて検邪聖省といわれていたもので、古くは異端審問を担当した組織である。1982年にミュンヘン大司教区を離れ、1993年に司教枢機卿になり、1998年に枢機卿団の次席枢機卿、2002年11月30日に首席枢機卿に任命された。歴代の首席枢機卿はオスティアの名義司教であることが通例であるため、同時にオスティアの司教位も受けた。カトリック教会において是認されている教義に異を唱える神学者に対して厳しく対処するなど、保守派の代表格とみなされていた。
しかし、第2バチカン公会議に背を向けるマルセル・ルフェーブル大司教などの運動には批判的であり、大司教がバチカンの許可なく司祭を叙階しようとした際には、バチカンを代表して直接面談し、「司教があくまでも分裂(シスマ)の道を進むのであれば、教会を破門されるだろう」と「改めて具体的に警告」して、伝統派を牽制した。ルフェーブル大司教は、この警告を無視して司祭を叙階して、聖ピオ十世会と称する独自組織を創設した[3]。
教皇就任[編集]
ヨハネ・パウロ2世の健康状態が悪化するにつれ、教皇の側近であり実質的に教皇庁をとりしきっていたラッツィンガーは後継教皇の最有力候補とみなされるようになった。教皇就任前の2005年4月初頭には『タイム』誌の「世界でもっとも影響力のある100人」の一人に選ばれている。
2005年4月19日、コンクラーヴェは2日目にしてラッツィンガーを新教皇に選出。コンクラーヴェの動向を見守りながらサン・ピエトロ大聖堂前に集まっていた人々の前にメディナ・エステヴェス枢機卿があらわれ、数言語で群集に呼びかけ、ラテン語で「新教皇としてラッツィンガー枢機卿が選ばれ、ベネディクト16世という教皇名を選んだ」ということを告げた。続いてバルコニーに姿を現した新教皇はイタリア語で群集に挨拶し、最初の祝福 (benedictio) を与えた。ベネディクト16世は教皇選出時78歳であったが、これは1730年のクレメンス12世以来の最高齢での選出である。またドイツ人教皇は11世紀のウィクトル2世以来950年ぶりである。
サン・ピエトロ広場の入り口あたりから、右前方、広場の外に建物が見えるが、その建物の最上階の右から2つ目と3つ目の部屋が教皇の部屋であり、週に一度、広場に向かって手を振る。
青年時代[編集]
トルコのマラティヤ県ヘキムハン(英語版)で生まれたアジャは若い頃に精神疾患を患い、軽犯罪を犯し故郷でストリートギャングの一員となった。その後トルコとブルガリアの間で密輸業に携わる。
次に彼はシリアへ行き、2ヶ月間の兵器とテロ戦術の訓練を受ける。彼はこの訓練をブルガリア政府からの資金援助の元に行われたと主張する。訓練後トルコの極右武装組織「灰色の狼」に参加する。アジャはパレスチナ解放人民戦線(PFLP)の元メンバーであると主張しているが、PFLP側は関係を否定している。
1979年に彼は灰色の狼の指示の下、中道左派系のミッリイェト紙の編集者アブディ・イペクチをイスタンブールで殺害した。彼は密告で逮捕され終身刑が宣告されたが、灰色の狼の助けを借りて脱獄した。
教皇ヨハネ・パウロ二世の列聖関連情報
教皇ヨハネ・パウロ二世の列福関連情報
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- 教皇ヨハネ・パウロ二世の列福にあたって
日本カトリック司教協議会会長
大阪大司教 レオ池長 潤 - 教皇庁、ヨハネ・パウロ二世の列福関連行事日程を発表
- 教皇ヨハネ・パウロ二世の列福発表
教皇ヨハネ・パウロ二世について
- 略歴
- 各国訪問の記録
- 使徒的書簡『急速な発展-広報活動に携わる人びとへ』(2005年)
- ヨーロッパにおける第二次世界大戦終結50周年のメッセージ(1995年)
- 日本カトリック司教団へのアド・リミナ メッセージ(1990年)
- 来日(1981年)の記録
教皇ヨハネ・パウロ二世の病状の経緯
教皇ヨハネパウロ二世の逝去までの一連の記事をまとめています。
教皇空位と教皇選挙
関連情報
- 教皇ヨハネ・パウロ二世の埋葬証明書(ロジト)
故教皇の業績をまとめた埋葬証明書 - 教皇ヨハネ・パウロ二世の遺言(2005年4月7日教皇庁発表)
- 使徒憲章『UNIVERSI DOMINICI GREGIS』
(ウニベルシ・ドミニチ・グレジス、主のすべての群れの牧者)
教皇選挙の方法を定めた使徒憲章。1996年にヨハネ・パウロ二世により発布。公式訳ではありませんが、ご参考までに。
教皇ヨハネ・パウロ二世の逝去に際して 日本カトリック司教協議会 会長 野村 純一 追悼メッセージ
教皇ベネディクト十六世 関連ページ
1979年3月6日の遺言[およびそれに続く付加]
「わたしはすべてあなたのものです」(Totus Tuus ego sum)。
至聖なる三位一体のみ名によって。アーメン。
「目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたにはわからないからである」(マタイ24・42参照)。このことばは、主が望まれるときに行われる最後の招きについて、わたしに思い起こさせる。わたしは主に従うことを望む。また、わたしは、わたしの地上における生活の部分をなすすべてのことが、この時のためにわたしを備えさせてくれることを望む。わたしはいつそれが起こるかを知らない。しかし、すべてのことと同じように、わたしはこの時をも、わたしの師の御母のみ手に置く。「すべてはあなたのものです」。わたしはすべてを、わたしの生涯とわたしの召命に関わるすべてのこととともに、同じ御母のみ手に委ねる。何よりも、わたしは教会を、そしてまた、わたしの祖国と全人類を、この御母のみ手に委ねる。わたしはすべての人に感謝する。わたしはまた、すべての人にゆるしを願う。わたしはまた、神のあわれみが、わたしの弱さと至らなさよりもはるかに豊かに示されるように、祈ってくださるようお願いする。
この霊操を行っている間、わたしは教皇パウロ六世の遺言を読み返した。この遺言を読んだことが、わたしにこの遺言を書くよう促したのである。
わたしは死後、いかなる財産も残さない。財産は処分されなければならない。わたしが日常生活で用いたものについては、適当と考えられるしかたで分配していただきたい。わたしが書いた個人的な覚え書きは焼却しなければならない。スタニスラオ神父がこのことを監督してくれるように願う。スタニスラオ神父には、かくも長い年月にわたり、またかくも万般にわたり協力と助力をしてくれたことを感謝する。しかし、それ以外のすべてのことへの感謝は、神ご自身のみ前で、わたしの心にとどめる。なぜならそれらは表しきることができないからである。
葬儀については、わたしは教皇パウロ六世が与えたのと同じ指示を繰り返す[欄外の注記:石棺ではなく、土中に埋葬。92年3月13日]。場所については枢機卿団とわたしの同郷人が決めるべきである。
「主はあわれみ深く、主は豊かなあがないに満ちている」(apud Dominum misericordia et copiosa apud Eum redemptio)。
ヨハネ・パウロ二世
1979年3月6日、ローマにて
わたしの死後、ミサと祈りをささげてほしい
1990年3月5日
聖人カレンダー
10月22日 聖ヨハネ・パウロ2世教皇
1920年-2005年(在位1978-2005)
聖ヨハネ・パウロ2世教皇(カロル ユゼフ・ヴォイティワ)は、1920年5月18日に、ポーランドのワドビチェで、職業軍人であったカロル・ボイティワと教師であったエミリア・カツォルブスカの次男として生まれた。8歳の時母を、3年後には医師であった兄エドモンドを失い、父によって育てられた。
クラクフのヤゲロニカ大学に入学し、ポーランド文学を専攻したが、1939年にポーランドにドイツ軍が侵攻し大学を閉鎖した。1941年に父も亡くなったため、生活のために採石場で(1940~1944年)で、その後ソルヴェイの化学工場で働いた。
司祭職への召命を感じ、1942年に、クラクフのアダム・ステファン・サピエーハ大司教がひそかに開いていた“地下神学校”に入る。それと同時に、彼は演劇活動に打ち込んだ。
戦後、再開したクラクフの大神学院とヤゲロニカ大学神学部で勉学を続け、1946年11月1日、サピエーハ大司教によって司祭に叙階された。
その年、ローマのアンジェリクム大学に派遣され、1948年に神学の博士号を取得した。
1948年にスターリン体制下の祖国・ポーランドに戻り、クラクフ近郊の二エゴヴィッチ小教区助任司祭、サン・フロリアーノ小教区助任司祭、1951年まで大学生担当司祭を務めた。
1958年7月4日に、教皇ピオ12世により、38歳でクラクフの補佐司教に任命された。また、第2バチカン公会議に定期的に出席し、『現代世界憲章』編纂に、重要な役割を果たした。
1964年に、教皇パウロ6世によってクラクフの大司教に任命された。同年6月26日には、枢機卿に就任された。
1978年10月16日、第264代のローマ教皇に選出され、ヨハネ・パウロ2世となった。同月22日に着座し、在位は26年5ヶ月に及ぶものとなった。
全世界の教会の牧者、平和の使者として遂行し「空飛ぶ教皇」と言われ、在位中、数多い旅行を行った。
1981年2月、ローマ教皇としてはじめて日本を訪れ、東京・広島・長崎に赴いた。
また、14の回勅、15の使徒的勧告、11の使徒憲章、45の使徒的書簡を発表し、『希望のかなたへ』などの5冊の著書を残した。
2005年4月2日、ローマで帰天した。84歳であった。
2011年5月1日、ベネディクト16世によって列福され、2014年4月27日教皇フランシスコによって聖人の列に加えられた。
出典[編集]
- “Johannes Paul II.: Vatikan veröffentlicht Buch über die letzten Wochen des Ponitfex”。networld.at、18.09.2005
- “Dying John Paul II prayed to ‘go to the house of the Father'”。Cathlic News、2005年9月19日。
- John Thavis “Before his death, pope prayed to ‘go to the house of the Father'”。Catholic News Service、2005年9月19日。
- FRANCES D’EMILIO “Vatican Issues Report on Pope John Paul II”。Associated Press、2005年9月17日。
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